先日、娘の幼稚園の手仕事講座に行ってきました。
ところがその日は長年園で手仕事を教えてこられた先生の最後の授業の日でした。
羊毛ワーク「春の精」
2回連続講座で作る羊毛の「春の精」。
幼稚園でするメルヘンのお話にも登場する妖精さん。
私は娘の採ってくるお花の横に置いてあげたいと思ったし、何よりこの先生に教われるチャンスを逃したくないと思っていた。
いつも人気があって参加できないことも沢山あった。
ところが講座の1回目で先生がこの講座を最後に引退される事を初めて知り、衝撃を受けた、他のママたちはもう長いお付き合いらしく、皆さんご存じの様だ。
子供にとって手仕事とは
無事に妖精さんも仕上がり、最後にお別れのお話をしてくれた。
娘さんが幼稚園の頃「小人さんを作って」というので、作って渡したところ、ものすごい喜んで肌身離さず持ち歩いていた事、そして、その一番最初の小人さんを先生もずっと手仕事の原点として持ち歩いている事。
先生も最初はグラムを量りながらもの作りをするのが嫌で(教える為にきっちり羊毛の量を知る必要がある)、教える仕事はまあそんなに続けないだろうと思って始めたこと。
だけど、一人のとても不器用なママの生徒さんが、「いろいろ園から出される手作りの宿題が苦痛で仕方なかったけど、これなら私も楽しくできて、子供にも喜んでもらえる、そんなものと出会えて嬉しい」と講座終わりに号泣されて、それが原動力で続けてこれたこと。
娘が大きくなってから、「ママの手仕事がどのくらい進んでるか、学校の帰り道に考えながら帰ってくるのが本当に楽しかった」「ママの手仕事を見ると、胸のあたりがじわじわと温かくなる」と話している事
ウォルドルフ人形を男の子に与えたがずっと遊ぶことなくほったらかしだったので、中学生くらいの思春期になったころに、もういいだろうと勝手に部屋から下げたら、「あれ、どこやった?」と聞かれた。遊ぶ、遊ばないは関係ないこと。
そして最後にこう伝えてくれた
「大袈裟かもしれないけど、手仕事は子供に”生きる力”を与えてくれるものだと思います」
大きくなった娘さんたちを見ていても手仕事の影響をとても感じると付け加えてくれました。
優しい世界をありがとう
もう私はこの話を聞く前から一人で泣いてしまっていたが、「手仕事は生きる力」で号泣だった。
私がずっと考えていた「手作りってなにがいい?」の答えを、先生は私にくれた。
本当にそうだと思う。
子供たちがあんなにママに作ってもらったものを喜ぶ意味が分かった。
生きる力をもらってるんだ。
大人になって、ママが不器用なのに作ってくれた、と知ったら余計嬉しいだろうな、とか考えたら涙が止まらず、その日中ずっとメソメソじくじく泣いていた。
私が先生に教えてもらったのは、たった数回と関係が浅いのに、なんでこんなになるかなぁ?と改めて考えてみると、先生の”優しい世界”に魅了されていたんだと気づいた。
最初は、いつか私も手仕事を教えられる人になりたいと思っていて、とりあえずの気持ちで先生の授業を受けてみた。
でも、数回受けるうちにとても自分には無理だと感じた。
技術・経験は差がものすごくあるのはまだ分かるんだけど、根本的に先生は優しい世界に住んでいる。
どう言葉に表現したらいいか分からないけれど、子供に対する配慮、思慮深さ、が元来身についている様な感じ?
その上で勉強と、経験を重ねているから、講座の途中の話がとても深く勉強になる。
私はその話を聞くのが大好きだった、多分みんなもそうだと思う。
羊毛の扱い方も優しかった。
手仕事を教えるというのは、こころを扱うようなもので、今の自分にはとてもとても出来る事ではないと思い知った。
(もちろん物作りの手助けは出来ると思うけど、その方のお子さんにあげるものに対して、深い配慮が必要だなと感じる。)
園で先生方の手遊びやお歌を聞くと、理性とは関係なく、衝動的にだーっと涙が出てしまうのも、なぜだろう?と思っていたけど、私は多分優しい世界に飢えていたというか、子供の頃足りなかったんだなぁと思う。
娘がその優しい世界に私を連れてきてくれた。
でも先生はいなくなる・・それで私はこんなにじくじく泣いているんだ。
書いている今でも泣けてくる、何回でも泣けてくる。
でも泣いていても仕方ない、必要な別れだったんだと思うしかない。
ちょうど桜が咲き始めていて、今年自分にもこんなお別れがあったんだなぁと春らしい気持ちになった。
私にとってとても大事なキーワードの一つが「手しごと」
編み機メルマガだけど、手しごとのこぼれ話も。